対話をする



こんにちは、夫です。


みなさんは夫婦で「対話をする」時間はどれほど持っているでしょうか?二人でささいなことを笑って話すことではなく、また口論をすることでもなく、向かい合って座り、お互いに落ち着いて、真剣になにかを(多くの場合二人の関係に起こった問題について)話し合うことはありますか?

夫婦はぶつかり合うことが自然です。しかし相手を攻撃する目的で激しくぶつかることと、お互いのちがいをやさしく丁寧に解きほぐしていくために対話をする目的でぶつかることでは、大きな差があります。以前「なぜ結婚について書くのか」という記事でも書きましたが、夫婦ははじめ原石であり、お互いに削り合ってかがやいていきます。お互いに削り合わない夫婦は「仮面夫婦」になる傾向があるかもしれませんが、激しくぶつかりすぎることもそれは長い年月をかけて取り返しのつかない疲弊を生み出してしまう原因になりかねません。

今日はそうならないために、人生の長い年月を、お互いに尊重し合い、愛し合っていくための手段として「対話をする」ということについて書きたいと思います。

最近起こった出来事

最近私たち夫婦のあいだでこんな出来事が起こりました。夕食時の会話のことです。

妻「ねぇ、なにか話して」
私「(話す……?なにを?……考えてみたけど)話すことないなぁ」
妻「考えてみて。なにか話したいことない?」
私「(考えてなにもなかったんだけど……。)ないなぁ」

私の言ったことに、妻はうれしそうではありませんでした。その日の夕食はお互いに完全に沈黙で、お皿に食器の当たる硬質な音が幾度となく部屋に響きました。

普段、私たち夫婦は楽しく会話をして食事を楽しみます。話のネタは考えなくても尽きません。妻にとって小さい頃夕食時の会話は家族の時間としてとても大切なものでした。家族のみんなが集まり、しゃべり、大笑いして楽しく過ごすことが彼女の家族の大きな価値観となっていました。

しかし妻は結婚当初から、私があまり自分のことを話さないのが気になっていました。彼女にとってお互いが自分のことを話し、小さなことでもなんでも共有することが「素晴らしくて公平な関係」でした。実際のところ、私たちの会話が尽きないのも大部分が彼女が話をしていたからでした。そこでその日の夕食のとき、彼女は自分から話すのをやめ、私に「なにか話して」と質問をしました。そういった背景があったために、私が「話すことがない」と言われてショックを受けました。

私が自分のことをあまり話さないのは事実です。話したくないのではなく、話さないのです。私が小さい頃は、私の家族はだれも自分のことを話しませんでした。食事のときはテレビが点いていました。「学校でこんなことがあった」「友達とどこどこに言ってなになにをした、こんなことを思った」といった会話を分かち合ったことなどほとんどありません。両親からそういった質問をされた覚えもありません。そのため、普段の生活でなにか小さなことが起こっても、だれかと分かち合いたいという気持ちを持っていませんでした。

もちろん、大きなことが起これば分かち合います。ですがそのときでさえ、私はまず自分の中で気持ちを整理し、なにが客観的な事実で、自分はなにをすべきかの解決策を出して処理しなければ、だれかに分かち合いたいと思いません。そのため気持ちを整理し、物事を処理しているときに普段とは様子のちがう私に対して妻が「なにかあった?」と聞いてくるときには、私はよく「んー」と言って話を流します。なんでも分かち合いたい妻にとっては、それもうれしくありません。

その出来事が起きた日の夕食時に私が「話すことないなぁ」と言ったとき、私の頭の中には処理すべき大きなことはなにもありませんでした。そして小さなこともありませんでした。それが妻にとっては「私に興味がないのだ」という意思の表れに思えたそうです。この不安は私と付き合っていたときから鬱積していた気持ちだったようで、そのためこのとき妻はとても傷つきました。


対話をする

ここで過去の妻であれば、感情的になって怒った態度をみせたものでした。しかし4年近く私と結婚生活をする中でさまざまなことを経験した妻は、「自制」を持つことを学びました。自分が感情的に受け入れられていないことを彼女はうれしくない、愛されていないと感じます。しかし自分がうれしくない、愛されていないと感じるときにそれを怒りやいら立ちとして訴えたり、まるで当然の権利のように主張したところで夫婦の健全な関係を築く上でよくないことを学んでいた妻は、「自制」を保ち、私に歩み寄りました。

一方で私はというと、妻がなぜそんな気持ちになるのかうまく理解できませんでした。私は小さなことでもなんでも話したがる彼女の性格を、それほど尊重していませんでした。なぜならなにも考えていないように思えたからです。「人はなんでもじっくり考えて、自分にできるベストな選択肢を取って生きるべきだ」と考えている私にとって、妻の行動は「突発的」でした。

しかし時間を置いて妻が落ち着いたときに私たちはしっかりと向かい合って対話をしました。妻がなぜ私にささいなことでも話して分かち合ってくれることを求めるのか。私がなぜささいなことを分かち合いたいと思わないのか。その日私に起こった嫌な出来事をなぜ私が彼女と分かち合いたくないのか。一つひとつ、丁寧に、ときには感情的になりそうになるときもお互いに「自制」を保ち、お互いが歩み寄れるポイントを探りました。

その結果、私は妻がどういった家族で生まれ育ち、どういったコミュニケーションに価値を置いているのかを知ることができました。そしてそれを理解し、彼女に歩み寄り、寄り添い合うことができていない自分に気づきました。そして私の性格がそうでないことを言い訳にしようとする自分の性質を超えて、彼女を愛そうと決心しました。

私たちがお互いに理解し合い、愛し合うという夫婦の最上の目標に達成するために、私たちは「対話をする」ことができました。それはまさに、二人が美しくかがやく宝石になるために、お互いにまだ岩のついている部分をやさしく教え合い、削り合っていく作業でした。聖書のガラテヤ人への手紙5章22-23節にはこうあります。

しかし、御霊の実は、
愛、喜び、平安、寛容、親切、
善意、誠実、柔和、自制です。
このようなものを禁ずる律法はありません。
(ガラテヤ人への手紙5章22-23節)

「御霊」というのは私たちの内に神様がおられることの証拠です。私たちは自分たちが創造主である神に背く罪人であることを認め、救い主であるイエス・キリストが必要であることを認めて信仰することで、神である聖霊が私たちの内に宿り、人生で本当に大切なことを教えてくれると信じています。

この夕食での出来事のときも、神の御霊は妻に「自制」を与え、私に「愛」を与えました。私たちの力でそれが達成できたのではありません。私たちは自分たちの内に正しさがないことを認め、自分を否定し、神様が働いてくださることを望みました。だからこそお互いに歩み寄ることができ、お互いが神様の中で一致することができたのです。


対話から夫婦を遠ざけるもの

私たちはだれもがこの世界のすべてを造られた神様がこの世界のすべての運命を握っていて、すべてをコントロールし、愛をもってみちびいてくださっていることを否定します。そして自分でやればもっとうまくやれると信じて、自分のやり方を押し通そうとします。それは夫婦関係においては「対話から夫婦を遠ざけるもの」です。

肉の行ないは明白であって、次のようなものです。
不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、
そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、
そういった類のものです。
ガラテヤ人への手紙5章22-23節

このリストは先に挙げた「御霊の実」とは対照的なものです。神様の働いていない関係にはこういった兆候が表れます。とくにわかりやすいのは、「分裂」ではないでしょうか。自分を否定し、相手に歩み寄らず、自分のやり方を押し通そうとする人はパートナーだけでなく、まわりの人と「分裂」を生み出します。結婚関係で「分裂」が生まれているなら、神様は私たちの内には働いていません。この客観的事実は、私たちが方向性をまちがえているわかりやすい指標です。


さて、今日は「対話をすること」について書きました。「対話」は夫婦だけでなく、友人関係や職場の人たち、近所の人たちとの関係づくりにおいても同等に重要なものです。みなさんはどれほど「対話」を大切に考えているでしょうか?「対話」とは、パートナーがどういった人かを正確に捉えようとする求愛行動です。自分と同じくらいパートナーを愛するために、ぜひ実践してみてください。




Photo by Charles on Unsplash

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