夫婦を「する」のか、夫婦で「ある」のか


こんにちは。夫です。

前回は結婚の素晴らしさについてブログを書きました。
前回のブログはこちらから。

ブログ投稿「なぜ結婚について書くのか」

素晴らしい結婚生活は、小手先では達成できません。ちょっとしたテクニックを使ってパートナーを一時的に喜ばせても、結局はもとの自分に戻ってそういうことをしなくなります。結婚について考えるとき、自分自身が本質的に変わることについて真剣に考えなければ、なにも変わりません。

今日は自分自身が本質的に変わるために、夫婦を「する」ことと、夫婦で「ある」ことについて考えていきたいと思います。

夫婦を「する」という考え方

長年ひとりのパートナーといっしょに生活をしていると、生活の多くの面で惰性が生まれてきます。朝の目覚め、ごはん、仕事や家事、子育て、就寝、休日の過ごし方……。人間はつねに刺激を求める生き物なので、毎日変わらない生活をしていると気づいたら惰性が家の真ん中にどっかり座っていたりします。そして悪いときには、パートナーといる時間も惰性になり、退屈に感じるようになっていきます。

そうなるとパートナーの悪い部分が浮き出てきたり、目に付くようになってきます。相手の言動や習慣、くせにいちいちストレスを感じたり、逆に自分が相手にストレスを与えてしまったり。家族のためにしているはずの仕事や家事がなんとなく義務に思えてきて、負担にもなってきます。

そういった状況に陥ったとき、みなさんはどんなふうに打開しますか?SNSやブログで読んだ小手先のテクニックを実践してみようと、自分からパートナーにやさしくしてみたり、プレゼントを送ってみたりしますか?結婚式に誓った「愛してるよ」ということばをいまさら言ってみても、恥ずかしさが残るだけかもしれません。

結局は自分に合わないことをやめてしまうんじゃないでしょうか。そして変わらない自分の「ありのまま」を受け入れてもらおうと、家庭以外で自分の居場所を探しはじめるかもしれません。あるいは惰性を受け入れて、かたちだけの夫婦に落ち着いてしまうかもしれません。

こんなふうに、夫婦を「する」ことに必死になっても、うまくいきません。なぜならあなたの内側にある本質はなにも変わっていないからです。楽しくないことを「楽しみなさい」と言われても、あなたの心は楽しくありません。そしていつの間にか自分が結婚を楽しめていないことを悪くない、と正当化しはじめます。

夫婦で「ある」という考え方

結婚はそれだけで素晴らしいものです。それは利害関係ではありません。

パートナーがあなたになにかをしてくれるから、あなたはその人を愛するのではありません。あなたがなにかをするから、パートナーがあなたを愛してくれるのでもありません。相手を愛する行動は、あなたとパートナーが結婚という素晴らしい関係で結ばれているという事実に対する喜びから生まれてくるものです。

愛の行動は基準には不適切です。愛の行動を「する」かどうかで愛が計られるなら、先にも書いたとおり小手先のテクニックになり、本質的にそれを「する」人でないなら、いつかあなたはそれができなくなります。

結婚式の愛の誓いを思い出してください。あなたはパートナーがあなたになにかを「してくれる」から結婚をしたのでしょうか?それとも、行動の奥にある相手の心があなたへの愛であふれていることがわかったから、結婚をしたのでしょうか?

健やかなるときも、病めるときも
喜びのときも、悲しみのときも
富めるときも、貧しいときも
これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、
その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか。

あなたは相手の心と誓いを交わしたのでしょうか?それとも、あなたはパートナーが「する」ことと結婚の関係を結んだのでしょうか?

誓いは心と心で結ぶものです。それが真実なのであれば、私たちは「する」を基準にするのではなく、「ある」ことに注目すべきです。あなたとパートナーは夫婦で「ある」ことで、すでに素晴らしい関係で結ばれているのです。もしそれを喜ぶことができないのであれば、私たちは「する」ことを見るのではなく、自分たちの「ある」、つまり心を最初に見るべきなのです。

愛することからはじめることの難しさ

自分たちが愛し合うべき夫婦であるという事実からはじめること。そこが出発点です。しかし多くの人がぶつかる問題がやってきます。「じゃあ、私の気持ちや理性の反発はどうすればいいの?」私たち夫婦にとって、特にこの問題にぶつかったのは夫である私のほうでした。

私は結婚カウンセリングのときに学んだ「愛の言語(Love Language)」では、「奉仕の行ない(Acts of Service)」を受けることによって、愛をもっとも感じる人だということがわかりました。つまり、自分のためにパートナーがなにかをしてくれることをとてもうれしいと感じるのです。

そして私は実際自分でも奉仕をするのが好きな人間です。身のまわりをつねに清潔に保ち、掃除や洗濯、皿洗い、整理整頓などは苦もなくこなすことができます。結婚当初からそのような家事を通して妻を「愛している」と思っていました。自分がそのようにされれば愛されていると感じるので、同じ方法でパートナーを愛そうとしたのです。

しかし私の妻の「愛の言語」は異なります。彼女は「ふれあい・ボディタッチ(Physical Touch)」「ことばで受け入れること(Words of Affirmation)」といったものが「愛されている」と感じることでした。いくら「奉仕の行ない」を受けたとしても、それは彼女にとって「愛されている」という(少なくともいちばんの)方法ではなかったのです。

私の思考回路はこうです。「こんなにも妻のためにしてあげているのに、なぜ彼女は私の行ないに感謝してくれないのだろう?私の心を見て知ってくれているのだろうか?」「妻はふれあい・ボディタッチやことばで受け入れられることを望んでいる。だけどそういったことは、まず生活の最低限の義務を果たしたあとにすべきことじゃないのか?」私の頭の中には、どうしても先に「する」ことがあって、そのあとに「ある」ことがありました。

私にとって、お互いに愛し合う夫婦で「ある」ためには、お互いが相手のためになにかを「する」ことが条件になっていたのです。妻は先に「愛すること」からはじめることが上手な人です。私は妻のことが理解できず、長い間自分が「する」ことを結婚生活の中で高く評価していたために苦しみました。

聖書が語ること

聖書はコロサイ人への手紙という書物の中で次のように書いています。

しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、
すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、
あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、
捨ててしまいなさい。

互いに偽りを言ってはいけません。
あなたがたは、古い人を
その行ないといっしょに脱ぎ捨てて、
新しい人を着たのです。
新しい人は、造り主のかたちに似せられて
ますます新しくされ、
真の知識に至るのです。
(コロサイ人への手紙3:8-10)

私は神に背く罪人です。神に背いているので、愛にあふれた神を知りません。だからこそ神抜きで生きようとして、自分の基準をつくり、その基準で妻を愛そうとするのです。

ですが神はまず最初に愛です。キリストを信じる信仰によって私は神につなげられ、新しい人を着て、愛によって生きる人へと変えられました。聖書を通して、そのことを信じています。だからこそ、自分が勝手につくり上げた基準、つまり「する」ことを通して愛を計る自分(古い人)を捨てる決心をしました。

この決心は外側を見栄えよくしようとするだけのものではありません。この決心は、自分の内側にある本質を変える力強い信念です。

もちろん決心をしたあとに物事が簡単に運ぶわけではありません。私は生まれたときから共に生きているこの古い自分にあまりにも慣れ親しんでいるために、その自分を否定し、愛からはじめる人へと変わるためには時間がかかりました。ですが自分が神に背く罪に囚われていることを自覚し、罪の牢獄から抜け出すためには外からの神の力が必要であることを認めたとき、神はその力を与えてくださいました


みなさんはパートナーとぶつかるとき、なにをまず最初に大事にしているでしょうか?なにかを「する」ことが条件付きの結婚関係になっていますか?結婚は夫婦で「ある」、ただそれだけで素晴らしいものです。

私たちは「パートナーを愛すること」からはじめなければなりません。そしてその目標に向かって、自分の個性、感情、理性を変えることを許していく、そうすることで、無条件の愛によって育まれる素晴らしい結婚を楽しむことができます。



Photo by Paweł Czerwiński on Unsplash

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