夫として

どうも、夫です。
1週間前に子どもが生まれました。元気な男の子です。それに合わせて、家族3人の生活がはじまりました。
先日妻がインスタグラムに私についてあることを投稿して、たくさんの反響があったそうです。私が妻のために朝に料理をつくってから出かけたことや、自分が大変なときに妻のお願いを聞いてあげたということで、私が良い夫だという評判を受けたそうです。
SNSでは、当然良い面だけ切り取って載せられていますし、そのためいくらか誇張されている部分もあるとは思いますが、今日は背景を説明しながら、「夫として」自分が感じていることについて書いていきたいと思います。
料理とアイスラテ
まず、妻がインスタグラムで載せたことについてふれると、私が朝出かける前に出産後安静にしているべき妻のためにごはんをつくってあげたこと、そして外に出られない妻のために自分が大量の荷物を持っていながらもコンビニでアイスラテを買ってあげたことを、妻は喜んでインスタグラムに載せました。その投稿を見た人からは、私が家事をしてあげるやさしい夫に映ったかもしれませんし、奥さん思いの良い旦那さんだと思われたかもしれません。結果としてはそのように見えるような行動だったのかもしれません。しかし、私の奥底で起こっていた心の機微は、もっと複雑なものでした。
私は家事が嫌いではありません。ひとり暮らしをしていたときから掃除や洗濯はきちんとしていましたし、部屋の整理もきっちりしていました。しかし唯一苦手な家事がひとつだけありました。それが「料理」です。
私は料理をすることがとても苦手です。嫌いと言っても過言ではありません。私が料理を嫌いな理由は、第一に食べることが好きではないからです。私はできるなら食べずに生きていきたい人間です。そのため、料理をするのもつらく感じます。さらに料理はほかの家事とちがって複雑で、栄養も考えなければいけません。料理をする時間もやたらに取られます。
私は「時間」についてもうるさい人間です。スケジュール帳は正確な予定で管理されていますし、無駄が一切ありません。重い荷物を持っている帰り道に「アイスラテを買ってきてほしい」と頼まれたときは、駅に着いてから荷物を置いて次の電車に乗るまで30分もありませんでした。文字通りタッチ&ゴーで家を出なければ次の予定に間に合わない状況でした。
私が妻のためにごはんをつくって出かけた前日、実は私は自分の料理嫌いが顔に出て妻に不快な思いをさせました。本当に料理をするのが苦痛なのです。わからないことが多いですし、わからないということ自体がさらにストレスになります。アイスラテを頼まれたときも、自分の予定を狂わせようとする妻のお願いにいら立ったことも事実です。
私は決して良い夫ではないのです。
気持ちを押し殺すこと
私が単なる良い夫なのであれば、おそらくあなたはこう思うかもしれません。「料理が嫌いでも、予定が狂いそうになっても、奥さんのことを愛しているから、自分の気持ちを押し殺して良い夫をやってあげている。」もしこれまで三年間の結婚生活で私が自分の気持ちを押し殺してきたのであれば、私はいまごろ押し殺してきた気持ちのせいで発狂して家を出て行っていたと思います。そのようにしてこれまで結婚生活をやってきたのではありません。「愛を信じて妻にやさしくする」程度なら、クリスチャンでなくてもできます。そして悲しいことに、「クリスチャンは良い人たちだ」と思っている人の多くは、「良い人」という面でしかクリスチャンを見ていません。クリスチャンであるということは、それ以上に深く、深く、人の「根っこ」のところにまで関わることなのです。
クリスチャンであること
私がクリスチャンの夫として妻を愛するためにしているもっとも大きなこと、それは「夫として妻を愛せない自分がいる」という事実を認めることです。私は妻を愛したい。愛そうと努力する。それでも、私の中には「料理をしたくない私」がいますし、「予定を狂わされたくない私」がいるのです。それは「妻を愛すること」よりも私にとって重要なことなのです。聖書は、すべての人は神さまに対して悪の人間であると語ります。聖書によれば、人間はどんなに良い人であれ、神さまの前では善ではなく悪なのです。私も、妻も、この記事を読んでいるあなたも悪の人間です。私は聖書が語るその事柄を心から信じ、自分を悪の人間だと認めています。
自分が悪であることを認めることで自分の無駄なプライドは崩れ、心の中に神さまが入り込む余地ができます。そうすることで、神さまが本当に大切なことを思い出させてくれます。
聖書の中でもっとも大切なことは「愛すること」です。愛をもってまわりの人と調和の関係を持つことがもっとも大切で、それ以外は二の次なのです。特に聖書の語る「愛すること」は、イエス・キリストがそうしたように「自分の好み」(料理が嫌い、予定を乱されたくないなど)を捨てて、相手のために自分を犠牲にするということです。
これを最上の基準にすることで、私は本当に大切なこと、つまり「料理をしたくないのはなぜか?」「なぜ予定を狂わされたくないのか?」といった自分の心の「根っこ」にある本当の問題について考えることができました。
妻を愛することが人生の最上の目標です。それを思い出したとき、私が妻を愛するためにできることを考えた結果が、お産後に安静にしてあげなければならない妻のために食事をつくること、外に出られない妻のためにアイスラテを買ってあげるという選択だったのです。その選択を取ることで自分の好みを放棄したり、予定が狂ってしまっても、それは「愛すること」が優先されているかぎり良いことなのです。
たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、
愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
また、たとい私が預言の賜物を持っており、
またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、
また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、
愛がないなら、何の値うちもありません。
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、
また私のからだを焼かれるために渡しても、
愛がなければ、何の役にも立ちません。
(第一コリント13:1-3)
どれだけ素晴らしい人間でも、どれだけ優れた人間でも、「愛がなければ」意味がないのです。朝、聖書を読んでいた私の頭の中に、この「愛がなければ」という神のことばがこだましていました。その神のことばに助けられてはじめて、私は自分の妻を愛せない事実を乗り越えることができたのです。
今日ここに書いたことは、ほんの一部でしかありません。私たち人間は自分で思っている以上に悪の深い生き物です。私たちはその悪に自分の力で対処する力を有していません。だからこそイエス・キリストが十字架で私たちの罪を背負って、私たちのために死んでくださることによって、私たちを救ってくださったことを信じる必要があります。そのことについては、またの機会に書こうと思います。
Photo by ipet photo on Unsplash
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