相手の愛の中に自分の罪を見る

久しぶりの妻の投稿です。

実は、10月に妊娠がわかり、いま妊娠6ヶ月になります。夫婦共々、本当に神様にこの贈り物に感謝です。

最初の3ヶ月はツワリがあり、風邪を共にこじらしたりと、思った以上に辛い日々でした。でも毎回の妊婦検診には必ずゆーまがついてきてくれ、送り迎えもしてくれ、しんどい時こそ祈ってくれ、毎日苦しみの中に暖かい神様の愛と恵みがたくさん溢れていました。

ツワリが終わると共に、子どもの胎動を感じることができ、元気にポコポコと動いているのを感じ、神様はこんな風にわたしを母親とし、ゆーまを父親とし、人間の中で人間を育てることができるようにデザインしてくれた、素晴らしい創造主だなぁ、と改めて身体を持って感じることができる経験です。今まで感じたことのない、マリアがイエスを身ごもっていた時の気持ちなどもクリスマスには考えました。神様ありがとう。


さて今回は、最近夫婦がお互いに感じている素晴らしい経験をシェアできたらなと思い、記事にして残します。

毎回言いますが、これはあくまでも私たち夫婦の経験、意見を喜んで読んで下さる人々にシェアし、残していますので、その点をご理解していただいて読んでもらえれば嬉しいです!


今回は「相手の愛の中に自分の罪を見る」です。もしかすると、みなさんにも経験があるかもしれません。結婚生活だけでなく、普段の生活の中で友達、同僚などの間でも起こりうることです。まずは私たちに起こったうちの一つを例として書いてみます。

《この間起こった私の怠惰事件》

ある日、ゆーまは私に「今日俺忙しいから、1日のどこかで、掃除と、トイレットペーパーとティシュを買って来てもらえる?」と頼んできました。わたしは掃除はすぐに終わらせましたが、怠惰(laziness)ですぐに買い物には出かけませんでした。

そのまま中々家を出ず、「あとちょっとで行こう~」とずっと思いつつ、夕方から2人で出かける予定の時間に。絶対に乗らないといけない電車があり、「よし!その乗る電車のすぐギリギリ前にいこう」と自分を奮い立たせましたが、結局本当にギリギリに。最終的に、ゆーまが走って買いに行ってくれ、乗るはずだった電車にもギリギリ走って間に合わせてくれました。わたしはただゆっくりと駅まで歩いて電車に乗っただけでした。

電車の中でゼーゼーと息を整えるゆーまにわたしは一言、「ごめんね。ありがとう」と伝えました。ここでゆーまは、わたしに対して「苛立ち、怒り」を持つことができました。彼がわたしに1日のうちでして欲しかったと頼んでくれた、たった数個のうちの一つのお願いだったのに、わたしは怠惰で彼のお願いを喜んで受け取る以上に、自分の楽な方、行かない方を選びました。

でも彼が言った言葉は、笑顔で「いいよ。ありがとうね。」でした。わたしは彼の走って行ってくれた態度、行動を通して彼の愛によって、すごく打ちのめさせられました。わたしが少しでも早く準備をして、少しでも早くやる気を出していれば、ゆーまに迷惑をかけることはなかったのに。彼の態度から自分のことをきちんと反省すること、そしてそれ以上に彼の愛によって自分のことをきちんと見返すことができました。


彼には2つの選択肢がありました。私が原因で生じた事に対して彼は怒ることができた。

→怒らなかった、むしろ愛を示してくれた
【結果】その態度に対して私がへりくだらされ、すごく反省した。相手への愛が増える

→もし彼が怒ってしまった場合
【結果】自分がした事に対して見つめ返し謝る必要があるのに、彼を責めてしまう、彼への不満、疑問が増える(何故怒るの?謝ったのに。)

「なんで行ってくれへんかったん、頼んだのに。行って欲しかったのに。」と言うこともできた。でも彼がくれた聖句はこれでした。


【聖書箇所】
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。
それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
(ピリピ人への手紙2:3-11)


そして、たとえ自分が怒ってしまった場合でも、この聖句を自分に言い聞かせるようにしているそうです。


愛する人たち。
自分で復讐してはいけません。
神の怒りに任せなさい。
それは、こう書いてあるからです。
「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。
渇いたなら、飲ませなさい。
そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
悪に負けてはいけません。
かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
(ローマ人への手紙12:19-21)


これは本当に、イエス・キリストが私たち放蕩息子のような罪人に対して示してくださった愛です。どんなに悪いこと、罪なこと、感謝できない時でさえ神様は私たちに恵みを、愛を通して私たちの罪を明らかにしてくださります。

ゆーまは、その神様の似姿を聖書の言葉を読み、信じていたのでその愛を反映して、わたしに向けてくれました。その結果、わたしもゆーまを通して、その神様の愛を経験し、反省、悔い改めさせられたのでした。


今回は、エペソ5章にあるように、夫を愛しなさい。の神様の言葉にわたしがきちんと従えてなかった内容でした。少し前には逆のパターンもあり、わたしが怒ること、苛立つことができたけれど、寛容、愛を示すことにより、ゆーまの心が神様によって満たされましたこともありました。このようにお互いの感情以上に神様を見上げ、それを御言葉から信じ、反映できた時にその周りにいる人たちに神様の愛が行動、形となって現れることを経験しています。

結婚生活の日々の中で、このような事をお互いから感じられることは、本当に祝福で、愛が積み重ねられていきます。お互いへの愛はどんどん増えていき、これをこの地上で経験できることは祝福です。


神様、毎日ありがとう。また書きます。

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