喜びに満ちた、恵みに基づいた生き方


こんにちは、夫です。

ゴールデンウィークも終わって、五月の中旬になりましたね。最近暑くなってきましたが、まだまだ季節の変わり目です。みなさんみなさん風邪をひかないように気をつけてください。

今日は聖書の「恵み」という考え方について書きたいと思います。


人生の喜び

みなさんは、自分の人生を生きていて、喜びに満ちていますか?
言いかえるなら、毎日楽しくて、幸せだと感じていますか?

もし毎日楽しくて、幸せだと感じているなら、
なにがあなたをそんな気持ちにさせていますか?

もし毎日楽しくて、幸せだと感じていないなら、
どうしてあなたはそう感じることができないのでしょうか?


一般的に言って、人が人生を楽しく感じるためには、以下のような要素が深く影響していると思います。

  • 仕事や勉強が楽しい。良い結果が出てくるたびに自分が賢くなっている・前に進んでいる・なにかを得ていると感じる。良い成果が私の人生を楽しくしてくれる。
  • お金やほしいものをたくさんもっている。お金がたくさんあるので、ほしいものはなんでも手に入れることができる。所有しているものが私の人生を楽しくしてくれる。
  • 良い友達や家族に恵まれている。好きな仲間がつねに自分のそばにいてくれる。まわりにいる人たちが私の人生を楽しくしてくれる。
  • 嫌なことがあっても、お酒で忘れたり、エンターテイメントや趣味でストレス発散できる。自分らしさを貫くことが私の人生を楽しくしてくれる。
  • とくに変化や起伏のない人生だけど、仕事・人間関係・休日の過ごし方、そういったものすべてがほどほどに充実している。適度に充実した暮らしが私の人生を楽しくしてくれる。
こういった外的な要素に人生の喜びを求めている人は、反対に言えばこういったものがなければ私の人生はみじめで、無価値で、無意味だと感じてしまう危険があります。いまこのブログを読むのをやめて、顔を上げて目を閉じ、自分自身の人生について考えてみてください。

あなたの人生になにがなかったら、あなたは悲しんだり、落ち着かなくなったり、不安になったりしますか?

それがないことは、あなたの人生をどのように変えてしまいますか?


対照的に、もしあなたが毎日楽しくて、幸せだと感じていないなら、それは自分にはそういったものがない・与えられていないと感じているからではないでしょうか。


クリスチャンの喜び

誤解していただかないでほしいのは、クリスチャンだからといって良い成果やお金、人間関係(外的な要素)が必要ないということではありません。クリスチャンもそういったものを必要としています。しかし、ひとつ決定的に異なる点は、クリスチャンは良い成果やお金、人間関係を絶対的な喜びにしていないという点です。

以下に聖書が語っていること基づいて、クリスチャンが神のみに喜びを見いだせる理由を書いていきます。「外的な要素」とは、良い成果やお金、人間関係など、自分の内面ではない事柄を指しています。


 1. クリスチャンは、外的な要素が心を完全に満たさないことを知っている

クリスチャンは、人の心は外的な要素で完全に満たされないことを知っています。外的な要素を必要とはしていますが、本当に人の心を満たすことができるのは唯一「神さまとの関係」です。

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」
(創世記1:26)

「われわれ」というのは、父・子・聖霊の三位一体の神を表しています。神は唯一無二ですが、ご自身のなかに父・子・聖霊という関係性を持たれています。私たち人間はこの三位一体を基盤に、神との関係性においてデザインされています。そのため、神さまとの関係をもっていなければ、人間としてもともとデザインされているように機能することができません。

言いかえれば、私たち人間の心には神さまのかたちに空いた「穴」があります。人はその穴を埋めるために、お金やほしいもの、人間関係、仕事の成果といったもので埋めようとします。しかし、それは一時的なものでしかないので、時間が経てばまた穴を埋める作業をくりかえさなければなりません。

人の心を完全に満たすことができるのは、神という存在だけです。そして神との関係をもつことを唯一可能にしているのが、イエス・キリストの十字架です。これに関しては、またべつの機会に書きます。


 2. クリスチャンは、神さまが許可して外的な要素を与えていることを知っている

クリスチャンは、この世界は神によって造られ、私たち人間もまた神によって造られたと信じています。(この点に関する科学的な反論はご自身でお調べください。神がすべての創造主であると証明することや、反対に創造主でないと証明することは、ご自身で調べていくことに意味があると思います。ただ、すべての創造物のありえない構造・発生の仕方を詳しく見てみれば、「神が存在する」と仮定したほうが反論より相当妥当であることがわかると思います)つまり、神がいなければそもそも私たちは生存していないし、聖書によれば私たちは創造主である神さまをほめたたえるために造られています

「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」
(黙示録4:11)

「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」
(詩篇24:1)

私たちがいま所有しているものがあるとすれば、それは①まず神のもので、それは②神が私たちに与えることを許されたもので、そして③それを通して私たちが神が素晴らしい御方だとほめたたえるためのものです。

クリスチャンは人生の過程で聖書や祈りを通してそれを深く理解していきます。そのため、人生のさまざまな出来事のなかで、お金の出入りや人間関係に惑わされることはありません。聖書のことばを通して神さまを知り、深く信頼していくことでゆらぐことのない人生を送ることができるのです。


 3. クリスチャンは、必要なものはすでにすべて与えられていると知っている

最後に、神さまは私たち人間のような(事実、私たち以上に)人格的な方です。私たちの生き方を見て、喜び、あわれみ、悲しまれます。なぜなら私たちのことを愛してくださっているからです。

イエス・キリストを信じることで、私たちの父となった神さまは、私たちが神さまに従う道を選択する上で必要なものをすべて与えてくださっています。もしあなたが自分に子どもがいれば、食べ物や育つ環境など必要なものを与えるのを怠らないのと同じです。

また同様に、子どもが自分のわがままのためではなく、父なる神を愛するために祈り願うものは与えられると約束されています。

「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」
(マタイの福音書21:22)

「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」
(ヤコブの手紙4:3)

つまり、クリスチャンは自己中心的に生きるのではなく、すべてを神さまを中心にして生きることで、必要なものはすべて与えられているという確信を持つことができるのです。言いかえれば、いま所有しているものはすべて、いま私たちが神をほめたたえるために必要なすべてなのです。そして神さまとの関係を喜び、心が満たされることができるのです。これこそが神さまから与えられた無償の贈り物、つまり恵みです。

そしてもし願うものが手に入るなら、それは神さまをあがめるために、またイエスの福音の素晴らしさをほかの人に伝えるために与えられたものです。そのようにして、クリスチャンは外的な要素に依存せず、それを用いることができるようになるのです。


すべては信じることからはじまる

ここに書いたことはすべて、「常識」という法則や科学的な見方によってアプローチするのであれば、永遠に理解できません。私たちのいる宇宙や地球は、神の存在を肯定しなければ説明できない事柄がごまんとあふれています。狭い視野をもって人生を制限し、すでに知っていることだけで納得して生きていくこともできます。ですがそれでは説明がつかないことが人生にはたくさんあります。

三つの理由についてすべて「知っている」と書きました。クリスチャンは聖書の伝える神がどういった御方で、どういった人格をされており、どういった力があり、これまで私たちのためになにをしてきてくださったかを「知っています」。

ですが、「知っている」だけでは私たちの人生はなにも変わりません。

たとえば「科学的な実験で一日8時間睡眠を取る人は、一日4時間睡眠時間を取る人より平均寿命が1.5倍長いということがわかった」と言われて、それを「知っている」あなたは「わかった」と言って、なにもしないでいますか?もし長く生きたいなら、あなたは実際に8時間睡眠を取る習慣をつけなければという思いに駆られます。

クリスチャンの「信じる」こともこれと同じです。「知っている」だけでは神の喜びに満ちることはできません。イエスが私たちの罪を背負って十字架にかけられ、三日後によみがえらたこと(福音)を「知っている」ことは、私たちを救いません。それを実際に「信じ」、そしてそれをリアルに生活の中で生かしている人が、本物の喜びに満ちることができるのです。

人間は完全な存在ではありません。どれほど頭の良い人でも完全な人格をもつことはできません。神さまはへりくだり、神さまを尊重して近づかれる人を祝福されます。信じようとする心をもつなら、あなたは信じることができるようになるのです。反対に、信じようとする心をもたないなら、あなたは永遠に信じることはできません。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
(マタイの福音書7:7-8)


「足りない」と感じて人生を生きていくか、それとも「すでに満たされている」と信じて神の恵みに基づいて人生を生きていくか。どちらを選ぶかによって、どこから喜びの泉がわいてくるかが変わってくるのです。

神のみが、永遠に枯れることのないいのちの泉です。

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
(ヨハネの福音書4:13-14)



Photo by Cristian Newman on Unsplash

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