新しいライフスタイルとしてのクリスチャニティ②

夫です。
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さて、今回は「新しいライフスタイルとしてのクリスチャニティ」の第二回です。今回はライフスタイルを身につける前に知っておくべきこと、「無知」について書きたいと思います。
「知らない」ということを知る
まず最初に、僕がこのライフスタイルを身につけられるようになる前に考えていた「前提」がいくつかありました。そのひとつがこれです。「自分は思っている以上になにも知らない」
人間の視野というのは、恐ろしいほどに限定されていて、それにもかかわらず、簡単に「自分はなにかをわかっている」という安心感を抱きます。みなさんはどうですか?
だれかに嫌なことを言われたら、相手はそういう意図がなかったのに怒りをぶつけてしまうことはありませんか?気の利かない人がプライベートではどういった人物かも知らないのに、自分に不快な気分を与えるという理由で「気が利かない」と決めつけてしまうことはありませんか?
相手はあなたは励まそうとしているのかもしれませんし、反省をもってあなたに変わってほしいと思っているのかもしれません。相手は家庭ではやさしい夫(妻)や父親(母親)かもしれませんし、電車では必ずお年寄りに席を譲るような人かもしれません。
あなたは驚くほど相手のことをなにも知りません。
それなのにあなたはその人と十分にコミュニケーションを取って確認する前から、あなたの頭の中の小さな世界で「この人はこういう人だ」という世界を作り上げて、その世界の中心である自分を守るために相手を攻撃するのです。
ギリシャの哲学者ソクラテスはこう言っています。「自分は無知であるということを知っている。」有名な「無知の知」です。
無知であればなにかを判断するための判断基準を知らないので、人のことを簡単に決めつけることができません。ゆえに、どんな人に対しても十分なコミュニケーションを取るか、あるいは「相手はどういった意図でそう言った(した)のだろう?」といった"緩衝材"があいだに挟まることになります。
そうすれば嫌なことを言われたと思って怒りをぶつけたり、気が利かないと感じてがみがみ言いつけたりして、相手との関係を損なってしまう瞬間は減ります。
もちろん、クリスチャンになる前の僕もこの考えを知っていました。
ですが問題なのは、それを本当に実践できるか?です。
多くの人が犯してしまうまちがいのひとつは、「知っていること」をあたかも「真実」かのように扱ってしまうことです。「知識」だけでは人はなにも偉くありませんし、素晴らしくもありません。「知っていること」を「実践」することができてはじめて、人は「真実」を見ることができます。知っていることを実践しないのであれば、それは知らないことと同じです。
さて、「無知の知」を知っていた僕は、どういった人間だったでしょうか?自分では、自分のことを謙虚な人間だと思っていました。当然、自分で「自分は謙虚だ」なんて人に言いふらしはしません。でも、心の中では自分は謙虚な人間で、そのほかの「無知の知」を知らない人よりは自分はすぐれていると思っていました。
少し考えてみればわかることなんですが、「無知の知」を知っているから自分は人よりもすぐれていると考えること、それ自体がすでに「無知の知」の罠にかかっている証拠です。
僕はそういった人間だったので、人生ではじめて牧師に会ったときは、牧師の話をよく聞きました。聖書の話をして、相手のことを知ろうと努めたのです。そして彼が話を終えて、僕は自分のすべき義務は果たした、と思いました。僕は「無知の知」を実践して聖書の話を聞いた。その上で僕は聖書を信じることができない。それが僕の出した結論でした。
僕はキリスト教が自分のなじみのない宗教にしか思えませんでした。必要もなく、理解することもできない概念だと思いました。
しかし、これこそ「無知」でした。
僕は外側から「キリスト教」という家を立って見て、「中には絶対入りたくない」と思っていたのです。ですがその気持ちはどこから来て、なにを意味しているのか、そのときの僕は気づいていませんでした。ただ、日本人の自分には外国の宗教はいらない。そう思っていました。
さて、クリスチャンになったいま、僕は「無知の知」が意味すること、そしてその実践方法を学びました。実は聖書にも似たようなことが書かれています。
「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(コリント人への手紙第一8:2)
聖書が哲学と異なる点は次のことです。
人間は知っていることを完全に実践することはできない。哲学はその上で「個人の努力」や「意志の強さ」を強調するが、聖書は「神の力」を強調する。
聖書に書かれている命令のすべての前提は、「人間にはそれはできない。だから神の力を借りなければならない」です。そしてその実践のモデルとなられるために、神は肉体を持たれ、イエス・キリストとしてお生まれになり、完璧な人生を生きられたのです。
クリスチャンがイエス・キリストを信じるのは、イエスを信じることによって「知っていること」をどうしても実践できない私たちを赦してくださり、愛してくださり、神の力によって助けてくださるからです。
また、その助けを借りて達成できたことは、私たちの功績にはなりません。すべて「神の力とみちびき」のおかげです。一方で、哲学では自分の功績、つまり「自分の努力の結果」になります。その二つが誘引する人間性のちがいは、どういったものでしょうか?ぜひ想像してみてください。
さて、前回も書きましたが、クリスチャンの人生は、生涯を通して原来の「私」になろうとする努力と、その努力の美しさをまわりの人たちにも伝えていく人生です。ここでの「努力」とは、自分自身にではなく神に向かう努力です。つまり、「神の力を借りる」ために自分自身の力を捨て、神さまを信じ、信頼し、信仰するという努力です。
神さまが私たちをデザインし、造ってくださったので、なにがあっても原来の「私」を取り戻す決意をする。その原来の「私」の姿を、祈りをもって神さまの御言葉である聖書の中に日々求める。そして自分を捨て、神さまを信じる力によって私たちの中で聖霊が働き、私たちは少しずつ変えられていく。それが信じる者たちの父である神さまの喜ばれることです。
父である神さまの喜ばれることこそが、クリスチャンの喜びであり、生きる意味です。
この喜びは、どんな喜びにも勝る喜びで、決して絶えることがありません。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ人への手紙2:20)
「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。』」(ルカの福音書9:23-24)
この信仰のライフスタイルを身につけるためには、「祈り」を実践して、まず自分が変えられなければなりません。そのことについては、また次回お話します。
今日はここまで。
また次回をお楽しみください。
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