和解の文化


どうも、夫です。


ここ最近で、ある人たちと素晴らしい和解の機会を与えられたので、みなさんにもシェアしたいと思います。

みなさんは「和解」と聞いて、どんなことを想像しますか?
僕は学生の頃、あるいはアルバイト時代は、嫌いな人がいれば無視をしたり、きつく当たったりしていました。「和解」なんて言葉は考えたこともなかったですし、相手がへりくだるなら仲良くしてやってもいいといった態度をずっとしていました。

みなさんはまわりに自分と合わない人がいるときは、どうしますか?


僕は(いまでもそうなんですが)よく自分の思いどおりに物事を動かしたいと思うタイプです。ほとんどの人がそうじゃないでしょうか?だれも自分の考えていることや計画していることがうまくいかなかったり、他人に邪魔をされれば、少なくとも喜べません。

僕はクリスチャンになる前、よくこんなふうに考えていました。「自分の考えていることをほかの人たち全員が考えるようになれれば、言い争いもけんかも、人を傷つけ合うこともなくなって、世界は平和になるだろう」大真面目にそう考えていました。そして自分の考えがまわりの人たちに影響することをある意味で自分の大きな使命と考えて、たくさんの自己啓発書や哲学書を読み耽りました。

そういった人間が知っておくべきことはひとつです。「人間は有限で、その人が見ることのできる物事や、考えることのできる物事にはかぎりがある」

僕はそういったことも理解することができず、ずっと「自分の国」をつくり上げようとしていたのです。



さて、一ヶ月ほど前のことなんですが、僕は同時期に「職場の人」と「教会の人」とちょっとした衝突がありました。衝突があったとき、だいたいの人が考えることは妥協をすることではないでしょうか。僕自身も、自分を妥協させて問題を問題として取り上げず、衝突を看過しようとしていました。相手に対するいら立ちや怒りは、自分の中で静かに押さえこもう。神さまはこの試練の中でも力を与えてくださって、助けてくださる。平安をお与えください。そう考えていました。

ですがそこにはなにかしら心のしこりのような、言いようもないもやもや感がありました。僕にいら立ちや怒りを与えた相手に対する理不尽さ、不当、そういったものが僕を悩ませました。

そして僕はあることに気づきました。


[20]イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。[21]『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカの福音書17:20-21)


クリスチャンの内側には、「神の国」があります。僕はそれを信じており、「自分の国」ではなく「神の国」がこの世界で広まることを願っています。ですが本当に「神の国」は僕の中にあるんでしょうか?

「神の国」があるということは、その国の「文化」や「慣習」もあるということです。そしてそれは僕自身が理解している「妥協」や「忍耐」とは異なるものです。たしかに聖書は「妥協」や「忍耐」について書いてあるような記述もあります。ですが僕が抱いていたものは、神の国の文化や慣習ではなく、自分が日本で生まれ、日本で育ってきて自然と身につけた、この世界の習慣だということに気づきました。

聖書は神の国の文化や慣習についてどういっているでしょうか?


[20]神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。[21]神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。(第一ヨハネ4:20-21)

「また、もし、あなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」(マタイの福音書18:15)

[2]謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、[3]平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(エペソ人へ手紙4:2-3)


自分が受けた理不尽さや不当を自分で抱えて悩むとき、それは相手を「憎んでいる」ことと同じです。そのとき、僕は神を愛せていないのです。だからこそ自分が受けたことを「正直に相手に話す」という慣習を実行する必要があります。もちろん嫌な気分になります。ですがそれを神の力を借りて乗り越えてこそ、僕の中で本当に「神の国」が現れ、「神の国」の文化を広めることができるようになるのです。

僕が衝突のあった職場の人と教会の人にそれぞれ話し合いを持ちかけて、ともにクリスチャンとして和解のために十分話し合い、祈り合いました。これこそ、美しい神の御国の文化だと思います。

もちろん相手は僕が納得するような反省の態度ではなく、こちらが和解を求めてくるから和解を受け入れる、といった態度でした。ですがそのことに怒りや復讐の念を抱くのは自分のエゴですし、和解を提案してくれたことに感謝してくれたので、ともに受け入れ合うことで丸くおさまりました。もし相手が反省をせずまちがっていることがあるのであれば、それは僕が対処する以上のことです。


愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐わたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(ローマ人への手紙12:19)


さらに、たとえもし彼らが僕の話にとり合わなくても、それは彼らがクリスチャンでなかったことがわかるだけです。同じ聖書を信じ、同じ神を信じているなら、和解の文化は必ず実行することができます。

これは相手がクリスチャンでなかった場合も同じです。神は「すべての人と平和を保ちなさい」(ローマ12:18)と言っています。相手がどんな人であれ、衝突があるときは和解を持ちかけ、平和を保つように努める。その文化の美しさは、本物であるがゆえに多くの人の心を揺さぶります。

創造主であられる神がこの世をつくられました。私たちも創造されたものの中のひとつです。人間は本能的に、和解の美しさを感じられるようにデザインされているのです。なので神を信じ、和解の文化を実行することは、自分の思いや望みではなく、神の思いや望みが押し広げられていくことです。そしてそのときに広がっていくのは、「自分の国」ではなく、「神の国」です。

それが目に見えるかたちでこの世界に存在するのが「教会」です。教会を通して養われる「和解の文化」は、教会だけにとどまらず、職場や家庭、友人関係や結婚関係にも大きな影響を及ぼします。「和解の文化」はこの世界の国や文化を超えて、聖書に書かれた神の御言葉を信じる全世界すべての教会にあるのです。


神を信じる者、つまりクリスチャンの人生の究極的な目標は、その生き方のかがやきからまわりの人々が感銘を受けて、クリスチャンが信じている神が素晴らしいということが多くの人に明らかにされていき、より多くの人が「神の国」で生きることを決心する手助けをすることです。そのクリスチャンの集まりである教会には、愛があふれ、喜びがあふれ、赦しと平安があふれています。


現代の社会に住んでいると「建前」や「仮面」であふれています。もしそんな社会に疲れた方がいらっしゃれば、ぜひ一度教会に足を運んでみてください。

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