和解の文化 〜夫婦編〜 その②

どうも、夫です。
前回のクリスチャンの「結婚」「愛」に関する考え方をふまえて、今回はそれをどのように実行するか書いていきたいと思います。
(前回のブログ「和解の文化 〜夫婦編〜 その①」はこちら)
どのようにして実行するか
聖書にはこう書かれています。「[22]しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、[23]柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ人への手紙5:22-23)
愛や喜び、親切や善意、誠実、柔和といった態度を示しつづける人、つまりへりくだって和解を求めつづける人を、人は責めることはできません。結婚の関係が壊れている夫婦ができる最初に一歩は、つねに相手に対してまず自分からこういった態度を示すことです。
僕たち夫婦もどちらか一方が怒ったりするときは、もう片方が落ち着いて、まずは神さまが僕たちに望んでいることを思い出させるように努めます。なので性格が真逆な夫婦なりに衝突はたくさんありますが、衝突の収拾がつかなくなることはありません。
しかしながら、僕たちはこの慣習を「自分の力」で実行しているわけではありません。
まずこれまで何度も取り上げてきたように「聖書」が僕たちの中心です。そのため、どちらが正しい、悪いといった議論にはなりません。
またお互いにクリスチャンとして神を信じ、神の子イエスの十字架の死とよみがえりを信じているので、聖書に書かれてあるとおり僕たちには「聖霊」が宿っていると考えています。この「聖霊」が、僕たちが理性を失わないようにする手助けをしてくれています。聖霊がなければ、僕たちは自力で自分たちの問題を解決しようとし、知恵が与えられず、神さまに立ち返ることなく結婚生活に失敗していたと思います。
クリスチャンは結婚をたびたびこんなふうに描かれます。

Heというのは夫で、Sheというのが妻です。HeとSheのあいだにある直線は、残念ながら二人がたどれる線ではありません。つまり、「どちらが正しい、どちらが悪い」といった構図で結婚関係を考えていれば、必ずどちらかが歩み寄ったり、どちらかが遠ざかったりします。
しかし両方が神のいる頂点に向かえば、二人のあいだにある距離はおのずと縮まっていきます。これが、神さまが結婚をデザインされたもっとも重要な要点です。
この考え方は衝突のときにもとても役に立ちます。夫婦が神を信じていない場合と信じている場合に分けて考えてみましょう。
夫婦が神を信じていない場合
たとえば、あなたが自分をへりくだらせ、自分の罪(落ち度)を認め、相手に和解を求めるときに、あなたの伴侶はあなたが妥協してくれたことに自分自身の正しさをみつけます。伴侶の中に「神」という存在がないので、相手自身が「正しさ」の基準にならなければならないからです。そういった基準が、伴侶が傲慢な態度であなたを許したり、弱みにつけこんでさらにあなたの罪(落ち度)を責めるといった結果につながります。そんなとき、あなたがもし神を信じていないなら、相手のためにへりくだった自分がみじめで、弱く、価値のない存在に思えてきます。
二人のまったく違う人間が結婚してひとつになるということは、かなりの時間と労力を要する過程です。まったく違う家族で育ち、違う性別として存在し、違う人生観をもって生きている二人が、相手を理解し、相手のために自分を合わせるということはほとんど不可能に近いと思います。
なによりもやっかいなのが、人は自分でつくり上げた「結婚観」を多少なりとも持っているということです。それに合わせて伴侶が行動してくれないと、裏切られたような気分になったり、相手のために尽くしていた自分に馬鹿らしくなって気持ちが冷めたりしてしまいます。
結局、神のない結婚によっていい関係を築き上げるには妥協の連続が必要なのだと思います。そしてその妥協を喜びとして受けとめられない人に待っているのは、不満の蓄積です。その不満はどこかではけ口をみつけるか、後年に大きな怒りとなって爆発するかのどちらしかありません。
夫婦が神を信じている場合
クリスチャンの夫婦の生活は完璧ではありませんし、より衝突の少ないものでもありません。クリスチャンになることはそういった完璧さや衝突の少なさを瞬時に得られるといったことを意味しません。クリスチャンであろうがなかろうが、そうでない夫婦と同様に苦難に直面しますし、クリスチャンにもかかわらず神の正しい観点を身につけていないので、クリスチャンらしからぬ結婚生活を送っている人もいます。まず前回も書きましたが、衝突が起こったときにクリスチャン夫婦が論点にするのは「どちらがまちがっていたか」ではなく、「二人でどうやって神のほうに向き直るか」です。どちらか一方が90%悪かったとしても、もう一方の10%の過失にも、相手の90%の過失を引き起こす原因があるのです。
つまり、夫婦のどちらかが「正しさ」の基準になることはないということです。クリスチャンにとってつねに「正しさ」の基準となるのは神であり、神が私たちに伝える「基準」というのが聖書です。
ですのであなたが自分をへりくだらせ、自分の罪(落ち度)を認め、相手に和解を求めるときに、あなたは伴侶に対して自分を妥協させているのではなく、「正しさ」の基準である神に対して自分をへりくだらせ、自分の罪を認め、神に和解を求めているのです。そして聖書に信仰を置いているあなたは、神があなたのそういった態度を見て喜び、罪を赦し、和解してくださるのを知っているのです。なぜなら、神はあなたがイエス・キリストを信じているかぎり、そうすると言っているからです。
一方で、あなたの伴侶も異なった態度になります。あなたが自分をへりくだらせ、自分の罪(落ち度)を認め、和解を求める姿を見て、伴侶は美しい模範的なクリスチャンの姿を見ることができます。そして伴侶が聖書を真に信じているなら、神に従順に従っているあなたの姿の中に光り輝くイエス・キリストの模範を見ることになります。神に力づけられたその姿を見て、傲慢な態度で許したり、弱みにつけこもうという気は一切起こらず、むしろあなたと同じように、いやそれ以上に、そのもともとの模範を示されたイエス・キリストのように自分もならなければならないことを思い出させられるのです。
このようにしてお互いがへりくだるようになり、神に対してお互いが従順になることで神が喜ぶことを知っているので、クリスチャンの夫婦には喜びがあふれます。
最後に
さて、二回にわけて「和解の文化 〜夫婦編〜」について書いてみましたが、いかがだったでしょうか?夫婦というのは、あらゆる関係の中でもっとも最初に来るもので、もっとも重要な関係です。夫婦関係がうまくいっていない人は、そのほかの関係、家族関係、友人関係、仕事関係といったものもうまくいきません。つまり夫婦関係で和解の文化をきちんと確立できていない人は、ほかの人間関係でも本質的な和解はできないということです。
また、恋人がいる人は夫婦になるための前段階に立っています。恋人のうちに知っておくべきことは「その人と気が合うか」ということと同様に、「この人とならうまく和解の文化を築けるか」ということです。本当に好きだった恋人と結婚したにもかかわらず、衝突があるたびに話し合いを避け、問題から目を背けるので気持ちが冷めてしまうということも珍しくありません。
夫婦や恋人だけではなく、すべての関係で神が「仲介者」である和解の文化をおすすめします。神さまはあなたがイエス・キリストを信じるなら、どんなときもあなたを助けてくださいます。ぜひ、そのことを信じて、神の御言葉である聖書にふれてみてください。
コメント
コメントを投稿