和解の文化 〜夫婦編〜 その①

夫です。
前回はまわりの人たちとの和解の文化について話したので、今回は夫婦での和解の文化について、2回に分けて話したいと思います。
真逆の性格
まず最初に言わなければいけないのは、妻と僕は驚くほど真逆の性格をしています。外に出て人とわいわいするのが好きな妻と家で読書をしながら静かに時間を過ごすのが好きな夫。だれかと助け合いながら物事をこなすことを好む妻と問題解決はなんでも一人でこなしたがる夫。映画鑑賞やショッピングが趣味な妻と考えていることをコツコツとノートにまとめることや読書が趣味な夫。性格だけでなく、出身背景や家庭環境もまったくちがいます。クリスチャンでなければお互いに惹かれ合わなかっただろうし、付き合うことも結婚することもなかっただろうと思うことは、妻も僕も同じです。では、なぜ、どのようにして僕たちは結婚するに至ったんでしょうか?
クリスチャンになって経験するもっとも大きな変化は、物事の悪い面ではなく、良い面が見えてくるようになることです。この世界は創造主である神さまによって造られたこと、いま自分は神さまによって生かされていること、神さまはご自身の良い目的のために自分を造られたこと、そういったことがはっきりとわかるようになるために、祈りの中で神さまを信じ、信頼し、その偉大な御力に頼ります。そうすることで、物事の悪い面ではなく良い面が自分の目の前で明らかにされていきます。
その過程で僕は妻が持っている大きな魅力に気づきました。それは隣人を愛する賜物に恵まれていることでした。僕にはない人間性です。
僕は他人に邪魔されたり干渉されたりせず、計画通りに過ごしたい人間でした。頭の中で論理的思考を組み立てることが好きでしたし、そういった話し方をする類いの人と話すことを好んでいました。衒学的な人間でした。なので魅力的に感じる女性も、かつてはそういったタイプの女性でした。
しかし神さまの素晴らしさに気づいていくほどに自分の小ささ・愚かさに気づき、さらには近くにいた妻の隣人愛に満ちた美しさに気づくようになっていきました。はじめて出会ってから三年の月日が経った頃のことです。
それから2015年の秋に付き合うようになり、2016年の5月に結婚しました。
ここまで読めばハッピーエンドだと思えるかもしれませんが、結婚をすることは結婚式がゴールではなく、むしろそこがスタート地点です。性格が真逆の二人がいっしょに住むと、たくさんの出来事が起こります。
クリスチャンの結婚観
結婚生活は、悪い意味で言えば「妥協」の連続です。そしてそれはお互いの個性が対照的であればあるほど、頻繁に、大きな問題として起こります。もちろんクリスチャンである僕たちにもあります。ですが僕たちはそれを「妥協」とは考えません。衝突が起こるとき、僕たちはお互いに愛している相手のために自分を変える、「愛のための変身」をするように努めます。
聖書にはこう書いてあります。
「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる。」(創世記2:24)
神さまが地上を造られ、最初の人間であるアダムとエバを造られたときに書かれた言葉です。「ふたりは一体となる」とは、「結婚」を意味します。つまり、「結婚」はこの世を造られた神さまによって造られたものであるということです。人間が歴史を通して編み出した制度という程度に収まるような小さなものではありません。
そして聖書全体を通して神さまが教えることは、「結婚」でもっとも重要なのは、私たちの罪のために十字架に掛かって死んだイエス・キリストがそうしたように、相手のために自分自身を犠牲にして相手を愛することです。相手への犠牲がないのであれば、それは「結婚」の本来の力を失うことになります。
「結婚」は生涯をかけて「愛のために変身」し、全人格(性格、個性、考え方、魂など)で交わってひとつになるプロセスです。
衝突が起こるとき
まったく別個の人間同士がひとつ屋根の下でいっしょに暮らすのに、衝突がないはずがありません。もしないのであれば、それは心のどこかの領域に相手に対する無関心や放置があるということです。衝突が起こるとき、僕たちも怒りを抱いたり、ついつい悪口が出てしまうこともあります。相手が自分を理解してくれないと強いいら立ちがわき起こりますし、ストレスになることもあります。
ですがそのときにクリスチャンが考えるべきことは、自分自身の正しさを主張するのではなく、「神さまは私たちにどうしてほしいと望んでいるか」を考えることです。神さまがどう望んでいるかを知る方法は、聖書です。聖書にはこう書いてあります。
「[2]謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、[3]平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」(エペソ人への手紙4:2-3)
たとえ僕が99%悪くて、妻が1%しか悪くなかったとしても、クリスチャンはお互い自分の罪をまず認め合う必要があります。なぜなら、私たちが相手に怒ったりいら立つのは私たちが神を知らないからです。つまり、神から背いているので、私たちは相手を本質的に愛する方法を知らないのです。なので、1%しか悪くない妻も、僕の落ち度を責めることは決してしません。
そして人間が人間であるかぎり、落ち度がまったくないという人はいません。世の中に完璧な人はいないからです。マザー・テレサでさえ、落ち度がまったくないことはありません。そしてマザー・テレサほどの人であれば、反対に「自分には落ち度はまったくない」といったことを口にすることは永遠にありません。
つまり、「自分は悪くなく、相手が悪い」とつねに物事の責任や原因を自分の外側に求める人は、いつまでも成長しない人です。そういった人は、結婚するときは必ず苦労します。
愛は感情ではなく修練の賜物
たびたび勘違いをする人がいますが、愛は「感情」ではなく「修練の賜物」です。よく耳にするのが、「結婚当初は妻のことを愛していたけど、月日が経って冷めてきた」といった話です。この人は「恋愛」と「愛」をごちゃ混ぜにしてしまっていると思います。
「恋愛」はいつか冷めます。相手の顔や体型が自分の好みだったり、自分のしてくれてうれしいことを相手がしてくれるので、「僕は彼女を愛している」と思うのは、それは「恋愛」です。「愛」ではありません。
結婚を通してそういった「恋愛」は冷めます。なぜなら、身だしなみの整っていない姿やだらしのない姿、自分のことを気づかってくれない態度や衝撃的な態度といったものが長い付き合いの中で必ず見えてくるからです。
先ほども言いましたが、「愛」はどんなことがあっても相手のために自分自身を犠牲にして相手を愛することです。つまり、相手に仕えて相手の喜ぶことをしつづけることです。そこに個人のためらいや嫌悪といったことは除外されます。
「なんで自分が嫌なことを相手のためにしないといけないの?」と思うかもしれません。逆にお訊ねしますが、なぜあなたはそれを相手のためにすることが「嫌」なのでしょうか?たいていそこに隠れているのは自分のプライドであったり、傲慢さです。そういったものは結婚とは相反するものです。そしてそれを捨てないかぎり、相手を愛することはできません。
またプライドを捨て、傲慢さを捨て、相手を「愛する」ことを決心すると、意外なほど身軽になり、自分のプライドや傲慢さの小ささを思い知らされます。そして「愛する」行為をつづけていくうちに相手を本当に愛することができるようになっていきます。これこそが真の「愛」です。結婚はこの「愛」のためにある、神が創造された関係であり、先ほども言いましたが人間のつくった制度という程度に収まるものではありません。
私たちが「愛する」ことを決心することで本当に相手を愛することができるようになるのは、神さまが結婚をデザインされたからです。
それでは、この考えをふまえて私たちクリスチャンはどのように「愛」を実行するのでしょうか?次回のブログでお伝えします。
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