思いどおりにいかないこと

夫です。
自分が思っているとおりには物事は進みませんし、永遠に進むことはありません。
だけどそこで思いどおりにいかないことにいら立つか、思いどおりにいかないことも神さまの御心だと信じて先に進むかは、僕はそのときの自分の選択次第だと思っています。
思いどおりにいかないときは「これも神さまの御心だ」と信じること。これはクリスチャンの重要な生き方のひとつだと思います。
ある人はそれを「運命」と呼びます。
ある人はそれを「妥協」と呼びます。
僕はこの世界を造られた神さまの御心が、この世界ですべての物事を動かしている御心が、僕の意志によって妨げられることのないように生きたいと願っています。
すべてを神さまに明け渡し、神さまの御言葉である聖書に書かれてあることを純粋に信じること。そうすることによって天の御国は広がっていくのだと思います。
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙5:3-5) 」
僕は聖書を読んでいると、まるで自分が天国にいるような居心地になります。
新約聖書の三分の一ほどを占める書簡の著者であるパウロが語る、理想の教会像を思い浮かべるだけで、胸がわくわくします。
ですがひとたびこの地上に目を向けると、みにくい争いや妬み、不健全な関係であふれているのを見ます。
残念なことに、教会でさえそういうことがあります。
そういうときは僕は内側でいら立ちがわいてくるのを感じますし、聖書に書かれていることなど永遠に実現しないのではないかとさえ思います。
すべてを放り出して、あなたたちは信仰のない人たちだと非難したくもなります。
ですが各教会に送られたパウロの手紙を読むかぎり、パウロも似たような状況にいたんじゃないかと考えます。
さらには、彼には上に立つ者として権威が与えられていて、実際に自分の望むようにしようと思えばそうすることもできたと思います。
しかし彼はその権利を捨て、神の御力が働く機会としました。
つまり、彼は自分の望むものではなく、神さまの望むものを求めたのです。
どうして僕も同じようにしないでいられるでしょうか?
僕は自分が信仰の弱い人間だと感じます。
天の御国がやってくることを待ち望んでいるにもかかわらず、どうしても他人を非難したい性質にとわられているのを知るからです。
そしてそれに心を乱されて、自分の立場や将来がおびやかされることを嫌っています。
強い人間であろうとするがゆえの愚かさです。
教会は僕のものではありません。
もちろん牧師のものでもありませんし、だれのものでもありません。
唯一ただ、神さまのものです。
この世界すべてがそうです。
だからこそ、自分の思いどおりにいかないときは、ひざまずいて祈り、神さまの御心が表されるように弱い者になることを選びます。
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、私の力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(コリント人への手紙第一12:9)」
人間にはだれしも物事を自分の思いどおりにコントロールしたい欲望があります。
ですが神さまにすべてを委ね、手放し、信じて待つときほど、人が強くなれるときはありません。
神さまが御心によってそのように世界と人を造られたのだと、僕は信じて目の前の困難を耐え忍びます。
みなさんは自分の思いどおりにいかないことがあるときはどうしますか?
もしいら立つことにもあきらめることにも疲れたら、ぜひ一度この世を創造された御方の御言葉を聞いてみてください。
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